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権力者への迎合か、それとも独立か? 2人の黒人指導者のテーマは属国にもあてはまる?

(by Sunshine)

前回はジョージ・ルーカス監督の新作「Red Tails」(第二次大戦時に人種差別と偏見の中で勇敢に闘ったタスキーギ学校出身の黒人パイロット部隊のニックネーム)について書いた。そして今回はタスキーギ学校開設の背景と当時の人種差別問題について書くつもりで、大体9割程書いたところで、このブログ自体に慣れていないせいか、突然全文が消失してしまった。

すっかりやる気をなくしてしまったが、タスキーギ学校の初代校長を務めた、奴隷出身のブッカ―・T・ワシントン(Booker T. Washington)と後に真っ向から反対し、ブラック・ナショナリズムの先駆者となったW・E・B・デュボイス(W.E.B.DuBois)の論争は、権力者(宗主国)に対する姿勢はいかにあるべきかという、”人類永遠のテーマ”を提示しているかのようにも思えるので、簡単に書いておきたい。

タスキーギ学校(The Tuskegee Negro Normal Institute)は、南北戦争終結後、奴隷制度から解放された黒人たちに実践的な技術を教えることによって、自立させることを目的に、1881年、アラバマ州メコン郡タスキーギに創立された。実際的にこれを創立したのは、この地域の黒人指導者に選挙票のまとめを依頼して選挙に勝った二人の白人民主党議員だったが、初代校長にワシントンが任命されたのは、民主党議員の友人で、教育者だったサミュエル・アームストロング(Samuel Armstrong)がワシントンを推薦したからだった。

二人の民主党議員は白人の校長を望んでいたが、南北戦争時に黒人部隊の隊長として、黒人文化、考え方、習慣等を理解していたアームストロングは、黒人学校の校長には黒人がふさわしいと考え、交友関係のあったワシントンを推薦したのだった。このアームストロングという人は、真のヒューマニストだったようで、黒人社会では、現在も高く評価されている。

ワシントン(1856-1915)は白人奴隷所有者を父に、奴隷を母に1856年、アラバマ州に生まれた。後にこの母は奴隷の男性と結婚し、彼が9歳まで共に暮らす。9歳の時、バージニア州で塩堀りの仕事をするため家を離れ、印刷技術を学んだり、白人から読み書きを教えてもらいながら、苦労して学校に通った。20代の時にアラバマ州に戻り、掘立小屋を利用して、教えたりしており、後に彼と彼の教え子たちは設備を整え、基金集めをしながら、本格的な学校開設を様々な人達に働きかけていた。こうした中で、アームストロングと出会ったのだった。

この学校の信条は、「節約、忍耐、団結心、技術の習得」であり、「黒人が社会、教育、政治、経済などの全ての分野において、平等権を即要求するのは賢明でない」といい、「黒人は2級市民である。それゆえ、2級市民をして最善を尽くすことが大切である」と言い、多くの北部白人啓蒙者達から支持を得た。

例えば、億万長者のアンドリュー・カーネギーなどは、ワシントンの文書や演説に必要な費用は全て彼が支払っていた。そして全米の各界有力者が、彼に拍手喝さいを送るようになる。白人の支持を得たうえで、黒人からも絶賛される。このやり方で彼は最も有力な黒人指導者となった。

             US Tuskegee
(タスキーギ学創立25周年記念写真。真ん中がワシントン。彼の向かって右隣りがカーネギー)

ところがこれに異を唱える人物が現れた。ハイチ出身の父とアメリカ黒人の母を持つマサチューセッツ州生まれのW・E・B・デュボイス(W.E.B.DuBois:1868-1963)である。

            w.e.b.dubois


彼は成績優秀のためハーバード大学を目指したが、経済的理由からハーバードをあきらめ、テネシー州にあるフィスク大学に入学。入学前に南部に生まれて初めて旅をして、人種隔離政策下における厳しい黒人境遇を目にして、人種差別の問題をライフワークにしたいと考えるようになった。

彼はフィスク大学を卒業後、奨学金を得て、ハーバード大学大学院で学び、黒人初の博士号を社会学で取得している。後に大学で教鞭をとるようになるが、象牙の塔にこもっていては社会変革はできないとして、「黒人地位向上委員会」(NAASP)を設立し。公民権運動の指導者として、黒人地位向上のための先頭に立った。彼は「黒人は黒人としてのアイデェンティーを持ち、誇りと尊厳を失ってはならない」とするブラック・ナショナリズムを主張し、黒人を2級市民とするワシントンを「スレイブ・メンタリティー(奴隷根性)の持ち主」として批判した。無知、無学こそが偏見を生む。これらの偏見をなくすためには体系的な勉強と科学的な真実追究、そして啓蒙であると信じて、精力的に活動した。

彼とワシントンの見解の相違は、ワシントンがアメリカ南部の奴隷出身であるのに対し、デュボイスの方は父がハイチ人(フランス系とドイツ系、それにアフリカ系の混血)出身で北部・マサチューセッツ州生まれという出自、それに年齢が12歳年下であるということも理由の一つかもしれない(「神に感謝しなければ。私の先祖がアングロ・サクソンではなかったことを」と彼は言っている)。しかし、今日までワシントンとデュボイスの見解は黒人社会における”永遠”のテーマとして事あるごとに議論の対象となっている。

権力者(宗主国)に追従すればわが身が安全と考える者、”悪魔”に魂を売ってまで、わが身の安全は要らないという者。この議論は一個人に、また一国家に当てはまる話だ。

なお、彼は日本が日ロ戦争でロシアに勝利したことに感銘しており、黒人とアジア人は共に有色人種として連携し、白人の”横暴”に立ち向かうべきだと言い、日本人のYasuichi Hikidaとも親交を持ち、日本や中国にも視察で訪れている。1941年の日本軍による真珠湾攻撃の際には、日本に味方をした黒人達が全米各地で決起し、暴動にまで発展した。これを工作した日本人、Naka Nakaneとも親交があったかどうか今のところは不明だが、デュボイスが日本に対して大変好意的だったことは確かだ。

http://scholarworks.umass.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1128&context=cibs

デュボイスからHikidaに宛てた手紙
http://credo.library.umass.edu/view/full/mums312-b088-i249

晩年は米国籍を捨てて、ガーナに移住。95歳で生涯を閉じている。

また、タスキーギ学校について語る際に忘れてならない事件がある。それは米国医学史上、最長期にわたって行われたタスキーギ梅毒人体実験だ。これは1932年から1972年にわたって、病状の進んだ梅毒の患者399人を治療することなく病状進行の度合いを調べるために行った人体実験だった。これに関与したキーパーソンが、このタスキーギ学校出身の看護師だった。1947年に梅毒の治療薬、ペニシリンが開発されたにも関わらず、これを使用せず、研究目的のため、放置していたというとんでもない実験だ(福島第一原発の事故後、”危ない地域に住んでいる”人達の体内被曝定期検査とやらを実施していることをあたかも誇らしげに報道しているニュースを目にするが、このタスキーギ梅毒人体実験となんだかダブって見えるというと不謹慎だろうか)。

                   syphilis
                  


Unethical Research
http://students.cis.uab.edu/rwians/Unethical%20Research.html  

US Public Health Service Syphilis Study at Tuskegee
http://www.cdc.gov/tuskegee/timeline.htm

Booker T. Washington, 1856-1915
http://docsouth.unc.edu/fpn/washington/bio.html

W.E.B. Dubois
http://www.lucidcafe.com/library/96feb/dubois.html

現在はタスキーギ大学となっている
http://www.tuskegee.edu/
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